[平成22年2月7日]no.392010年02月08日 10時46分46秒

昨日、久しぶりの講演依頼あり、結城商工会議所で二時間も喋ってきました。演題は「①社員の遣り甲斐とは何か? ②景気に左右されずに会社を伸ばす方法とは?」でした。
本来であれば、12月での講演依頼でしたが予定が取れず延期して頂いたのですが、少し直そうと余計なことを考えてしまったせいで原稿整理に正月も潰してしまいました。やっと昨日で去年からの頭の上に載っていた重石から解放されたので、今日は気分爽快な筈でした。
それなのに、少しだけ寂しいことが起きていました。

新聞の見出しに「横綱 朝青龍が引退」理事会が厳罰姿勢横新も勧告。“放任のツケ協会に重く”マスコミを始め皆さんが仰っている事はすべてその通りだと私も思います。

最近になってよく載っている朝青龍関の写真に、学生服を着てのVサイン映像をどのように評価するのかが意見の別れる岐路なのかなと思います。マスコミもきっと何かの意図があればこそ掲載していると思うのですが真意は分りません。

学生服評価に戻りますが①横綱には相応しくない/品位に欠ける/ふざけている。②おちゃめで楽しい/横綱の地位=雲の上の存在が身近になった/笑顔がステキなど。私の周りは殆ど①の意見でした。多勢に無勢を承知で敢えてへそ曲がりの考えを書きました。私は「共生」を基軸にした活動をしています。会社のHPでも五つの共生「①共生の原点/信頼の絆、②顧客との共生、③環境との共生、④資源との共生、⑤地域社会との共生」をうたっております。私の共生に対する考えは「自分を削って、相手と共に生きる」が原点になっています。精一杯の努力をしても相手側からすれば、共生の域に達していないと思いながら少しでも相手側から信頼されるように努力を重ねるしかないとも感じています。

この延長には「こうあるべきだ」という考えは全くありません。辛いけれど、相手の主張を受け入れる努力が自分自身を変えていけると信じています。朝青龍事件をこの共生という尺度で考え直してみます。日本の諺に「三つ子の魂、百まで」があります。「小さい時に学んだ躾は、歳を重ねても治せない」ことなのかなと思いますが…。

元朝青龍関はモンゴルの出身で遊牧民族ですが、日本は農耕民族ですので、お互いに根本的に相容れない思想なのです。話が少し飛んでしまいますが、日本の製造業が世界の中で生き残れるのは、「協調性のある民族は日本人だけという素晴らしい特質を備えているから」と言われています。自分とは違った相手側を排除しないで相手に合わせられるからこそ、日本の製造業は世界に羽ばたき日本の今日の繁栄があるとも思っています。相撲を通して、モンゴルと日本が友好という信頼の絆に結ばれれば素晴らしいことではありませんか。品位を押し付けるのでは無く、相手を認めてあげることが出発になるのです。しかもそれが出来るのは、日本人の文化と思えば違った方法があったはずです。白鴎横綱が慟哭した涙と元朝青龍関の目に静かに流れた涙の意味を理解してあげたいと思っています。


(少し興奮して長めになってしまいましたので、暴露欄は来月になります)

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